彼の人のエッセイ

5分で読める小説を書いています。

盗塁のサインを無視して

監督が帽子のつばを触り、胸を撫で下ろした。

 

年上で格上の相手エースが放った火の出るようなストレートを目一杯振り抜いた僕の打球は、夜な夜なセッタイで遅く帰って来る父さんの足取りみたいにふらふらと、一瞬、時間が止まったかの様に野手の間にポトリと落ちた。地方大会の1回戦、まばらな客席からは僕の名前を叫ぶ母さんの声が響いている。父さんはフツカヨイで辛そうだ。

ノーアウトランナー1塁。盗塁をするのだけは絶対に嫌だった。2塁ベースの方に目をやる。ショートには同じリトルリーグだった啓介が立っていた。

 

啓介はチームきってのいじられ役で、温厚な性格から何をされても怒ることがなく、笑って許してくれた。僕もリトルリーグの練習では啓介いじりに勤しんでいた。

小学校6年生で初めて同じクラスになり、野球以外でもいじりの場を得た僕はやりたい放題だった。リコーダーの中にウィダーインゼリーを流し込み、吹くと穴からゼリーがニュルニュルと出るようにしたり、椅子の両脇に大きな羽を付けて、インスタ映えをさせたりした。それでも啓介は怒らなかった。

ある保健体育の授業で、クラスのみんなはペニスという言葉を習った。今まで聞いたことのない独特なその言葉はたちまちクラスの関心をさらっていった。男子が女子にその言葉を耳打ちし、走り去るという通り魔的案件も多発した。

そんなペニスブーム絶頂期、僕は何の気なしに啓介の事をペニ介と呼んでみた。それを聞いたクラスメイト達が真似してそう呼ぶようになり、驚く程のスピードで校内に広まってしまった。啓介は完全にペニ介になったのだった。

ある日、いつものように啓介にペニ介いじりをしようと話しかけた時に事は怒った。あの温厚な啓介がブチ切れたのだ。今までの鬱憤を晴らすかのようにキレ続ける啓介に、僕は唖然と立ち尽くしていた。

それからお互い声を交わすもなく卒業し、僕達は別々の中学校に進学した。

 

監督のサインは盗塁。僕は深いため息をついた。これから僕はチームの勝利の為、3年もの間気まずい関係にある男の元へと走る訳だ。逆方向に走り出して、間違えましたとでも言い訳してみようか。そうこう考えているうちにピッチャーがセットポジションに入ってしまった。サインを無視して監督に叱られるか、はたまた。

投球モーションに入ると同時にランナーコーチャーやベンチからGOという声が響いた。僕は思い切り走り出した。耐えられなかった。ペニ介の件は、完全に僕が悪い。サインを無視したら、また僕は悪い。もう悪者になりたくない。

必死に、全力で走った。視界には、2塁ベースのカバーに入るショートの姿が映り込む。

スライディングした僕の耳に、審判のセーフの声が聞こえた。恐る恐る顔を上げた。砂埃の中から、懐かしい顔が覗いた。タッチしたグラブを僕のつま先から離していく。

「あの時は、ずっと、ごめん」気がつくと、そう呟いていた。

「ナイスラン」啓介はそう言うと、再び僕にグラブを近づけて、そっと股間にタッチしてきた。バカ、やめろよと手で撥ね退けた。僕の頭の中では啓介の声がずっと反響していて、母さんの雄叫びは全く耳に届かなかった。

 

試合は3対1で、僕のチームの負けだった。帰ったら時間があるし、友達にでも電話をしてみようと思った。

 

 

読み終えたら聴いて頂きたい1曲

電気グルーヴ 『Baby's on Fire』 - YouTube